地中海で一番大きな島。面積は四国と岡山県を合わせた広さ。
地中海のほぼ中央に位置し、陸海交通の十字路をなしており、遠い昔から様々な民族が去来しました。
シチリア島最古の住民は、紀元前6000年頃から住んでいたシカニ人です。
彼らはシチリア島沿岸部に散らばって住んでいました。
その後、紀元前1500年頃、イタリア半島からシクリ人がやってきます。
彼らはシカニ人より戦闘的な民族で、高台に防御施設などを作りました。
そしてシカニ人を追い出しながら、シチリア島東部から南部に進出していくのです。
ちょうどシクリ人がやってきた頃、南仏辺りの地中海沿岸部地方?からエリュモイ人がシチリア島西部にやってきていました。
エリュモイ人は、先住民のシカニ人と混血しながら住み着きます。
さらに遅れること800年、紀元前8C~6Cにシチリア島へやってきたのが「ギリシャ人」と「カルタゴ人(フェニキア人の末裔)」です。
ギリシャ人はシチリア島の主に東部、カルタゴ人は西部にやってきました。
この2民族は、シチリア島に限らず地中海沿岸部にたくさんの植民都市を作っています。
カルタゴ人はフェニキア人の末裔で、今のレバノンに住んでいた民族です。
「海の民」と呼ばれるほど海洋貿易の得意な民族で、紀元前12C末にはジブラルタル海峡を越えて大西洋まで進出し、航海と交易の為の拠点を各地に作ります。
その一つだった「カルタゴ(今のチュニジア)」が都市国家として発展し、カルタゴ人となります。
一方、フェニキア人より一足遅れて航海・交易活動に乗り出したのがギリシャ人。
ギリシャ本国の人口が増えてくると、土地が痩せているギリシャ本国に見切りをつけて、人々は新天地を目指して海外へ出ていくしかなかったのです。フェニキア人にとっては憎むべき商売敵。両者は犬猿の仲なのです。
ギリシャ人は、シチリア島の東部、南部、北部の一部に植民活動を行います。
その地域には、先ほど言った「シクリ人(イタリア半島から来た戦闘的な民族)」が多く住んでいたので、ギリシャ人は「シクリ人の土地」という意味の「シケリア」と呼び、それがシチリアの語源となったのです。
ギリシャ人はシクリ人を制圧しながら内陸まで支配地を広げていき、ついにはシチリア島西部まで進出します。
ギリシャ人がシチリア西部まで進出してきた時、そこにはすでにライバル・天敵である、そうあのカルタゴ人の勢力圏だったので両者は激しく対立します。
シクリ人やエリュモイ人を巻き込んで数百年間も続いたのです。
カルタゴ人が勝って東海岸まで迫った事もあれば、ギリシャ人が巻き返したこともありました。
今回訪れるシチリアの町や古代遺跡の多くはこの時代に起源を持っており、そこにはたいていギリシャ人とカルタゴ人の戦闘の歴史が刻み込まれています。
そんなギリシャ人とカルタゴ人の長い抗争に終止符を売ったのは、第三の勢力として頭角を現したローマ帝国の存在です。
イタリア半島を制圧したローマ帝国は、紀元前3C頃から地中海へ進出してきます。
その当時の地中海の制海権は、西(シチリア含む)はカルタゴ、東はギリシャが握っていました。
まずローマ帝国は、地中海の西側へ攻めてきます。
ローマは、まず一度目の戦いである第1ポエニ戦争(前264年~前241年)でカルタゴに勝ち、シチリアからカルタゴを一掃。この時、シチリアの東側にあったギリシャ人植民はローマに味方しカルタゴと戦ったので、ローマの同盟市としての独立の地位を認められる。西側にあったギリシャ植民はカルタゴの支配下だったので、ローマからこっぴどく懲罰され税をしぼり取られる従属都市へ転落。
その後、二度目の戦いである第二次ポエニ戦争(前218年~前201年)。カルタゴは天才戦略家ハンニバルが兵を率いてイタリアへ進攻。
イタリア半島を北から席巻するも、ローマ市を目前にしてシチリアは、ローマの同盟市という地位を認められたごく少数のギリシャ植民を除いて全土がローマの属州にされた。
ローマはギリシャを征服し巨大なローマ帝国へ。
313年、キリスト教を公認。380年には、ローマ帝国の国教へ。395年、ローマ帝国は東西に分裂。
300年代後半からは、ゲルマン民族の大移動の波に飲み込まれ、ついに476年に西ローマ帝国は滅亡。
440年にヴァンダル族がシチリア占領するが、493年に東ゴート族に敗れアフリカへ。
535年に東ローマが東ゴート族をやっつけ、イタリア半島の大部分とシチリアを取り返す。
ここから約300年間、東ローマの支配。
ローマ、ヴァンダル、東ゴート、東ローマと1000年以上に渡り、征属地として税をしぼりとられる立場。
古代初期には「地中海の穀倉」と称えられたほど農業生産の豊かな島だったが、農地改良や灌漑施設の整備もされず、貧しい島になっていた。
東ローマの支配時代、7世紀にムハンマドがイスラム教を作り、イスラム教が東は中央アジア、西はイベリア半島に及び広大な地域を支配下におさめた。
シチリアでは、827年にビザンチンの総監が皇帝に反旗をひるがえし、イスラム勢に援助を求めたのがきっかけになり、イスラム勢が北アフリカからシチリア西海岸に渡ってきた。
925年にシチリア全土がイスラム(アラブ人)に奪われた。
このアラブ人はシチリアに繁栄の時代をもたらした。
ビザンチン時代の硬直した官僚制度や大地主が優遇侵されていた税制は廃止され、簡素で効率の良い行政制度と公平な税制が持ち込まれて、庶民の暮らしはぐっと楽になった。
新しい農業技術も持ち込まれ、農地や灌漑施設の改良が進み、柑橘類、ピスタチオ、ナツメヤシ、サトウキビ、ワタ、メロン、アラビア医学による薬草など、ヨーロッパになかった栽培植物がもたらされた。また養蚕と桑の栽培が導入され、絹織物の生産が始まった。
アラブ人は農業ばかりではなく、さまざまの手工業を起こし、交易を盛んにしてシチリアにかつてない繁栄を招いた。
また、当時のヨーロッパの水準をはるかにこえていたイスラム圏の医学、薬学、化学などの知識をもたらした。
そして、彼らは宗教に寛容で、キリスト教徒やユダヤ教徒も自分達と同じ「啓典の民」(アブラハムの宗教)として信仰の自由を認めた。
シチリアの中心都市は、古代からビザンチン時代にかけては東のシラクーザだったか、アラブ人の時代になって、西のパレルモに移った。
南イタリアを支配していたノルマンがシチリア征服に乗り出す。きっかけは、アラブ人同士の争い。
2人のアラブ人武将が並び立って激しい戦いを繰り広げており、一人が負けて、南イタリアのノルマンに助けを求めた。
ルッジェーロ(オートヴィル家の12兄弟の末弟)がシチリアへ渡る。1061年(南イタリアで問題が起きて、戻ったりしたが)1072年、パレルモ奪取。
ルッジェーロは兄からシチリア伯に叙位され、初代シチリア伯ルッジェーロ一世。
なおも抵抗を続けるアラブ人の最後の拠点ノートを1091年に陥落させシチリア全土の征服。
6年前に兄が病死し、息子が跡を継ぐが、乱世に立ち向かう能力には欠けており、家臣達が反旗をひるがえして独立を宣言したりした。
甥でもあり主君でもあるボルサを救援にルッジェーロ一世は南イタリアへ出兵し、見返りとして南イタリアでも領土を獲得していった。ボルサの後、その子が跡を継ぐが、1127年に跡取りを残さずに死に、ルッジェーロ一世の子ルッジェーロ二世がその地位と領土を継ぎ、シチリアから南イタリアに及ぶ巨大な国を建て、1130年にローマ法王から王号を認められた。これがノルマン・シチリア王国の成立です。
ノルマンは、9世紀にフランスのノルマンディ地方に定着したバイキングの子孫。
フランスではバイキングを「北国の人」という意味の「ノルマン」と呼んでいた。911年、ノルマンのボス・ロロが西フランク王(シャルル)とキリスト教への改宗、服従、ほかのノルマン退治を約束。
ノルマンディ地方といえば有名なモンサンミッシェルがあります。
MSMとは大天使ミカエルの山。大天使ミカエルの聖地は南イタリア、ガルガーノ山。10世紀頃からノルマン人の、ガルガーノ山へ巡礼が盛んになった。
当時、南イタリアは大小いくつもの国が分立して互いに争っており、弱肉強食の戦国時代だった。さらにイスラムの侵攻も激しかった。
そこで各地の君主に剛腕ぶりを買われて、ノルマン人は傭兵になってた。
そのうち、ノルマンの仲間だけで独自の強力な戦士集団になり、自分達で領土をとることになる、助っ人に来てもらったはずが、いつのまにか全部ノルマンにとられた。
このようなノルマンの中でオートヴィル家が有名。
ノルマンは故郷を捨てて、少数者として異言語、異人種、異文化に飛び込んだので、宗教も含め、異文化に対する偏見がなかった。
ルッジェーロ一世がシチリアを征服したが、イスラム教徒の手からシチリアを奪い返すという意識は全くなく、たんに自分の領土を拡大したかっただけ。
そこで、ノルマン王朝ではイタリア人、ギリシア人、アラブ人、ユダヤ人など、知識や能力に応じてさまざまの要職に登用した。ノルマン自身はフランス語を使い、公文書はラテン語、イタリア語、ギリシャ語、アラビア語を公用語として認めた。
ギリシア正教、イスラム教、ユダヤ教の信仰の自由も認めた。
ノルマンが持ち込んだカトリック、ラテン、ゲルマン文化に、ギリシア正教、ビザンチン文化、アラブ・イスラム文化が加わり、多様なノルマンシチリア文化が育っていく。
ルッジェーロ一世は名君として知られ、産業拡大にも力を注ぎ、次のルッジェーロ二世も父に勝る名君であり、南イタリア、北アフリカの一部、ギリシャの一部まで領土に加えた。
しかし、ルッジェーロ二世の孫(グリエルモ二世モンレアーレを作った)が子を残さずに1189年に死に、ルッジェーロ二世の娘(コスタンツァ)が跡を継ぐ。彼女はドイツのホーエンシュタウフェン家と結婚しており、その夫が南イタリアへ進攻し、1194年シチリア王位を継いだ。3年後死に、4才だった息子フリードリッヒ二世(フェデリーコ)がシチリア王に。彼は1212年にドイツ皇帝にも。
彼はドイツでの仕事が一段落すると、あとを息子に任せて自分の生まれ故郷で大きな愛着を持っていたシチリア王国の統治に全力を傾けた。
王国の都はパレルモだったが、シチリアは情勢が安定していたので、外敵に直面していた南イタリアで治世の大半を過ごした。
法王の宿敵であるドイツ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)が、南イタリアに大きな勢力を持ったので法王は脅威を感じた。
そこで様々な策略を試みて、ホーエンシュタウフェン家の力を削ごうとするが、実力者フリードリッヒ二世が健在の間は何も実効を上げる事はできなかった。
1250年に彼が没すると、ローマ法王はシチリア王国はノルマン以来、ローマ法王の封土だったと主張し、ホーエンシュタウフェン家の王位継承を否認し、法王に忠実だったフランス王ルイ9世の弟シャルル(アンジュー家)をシチリア王にする。
まっ、当然戦争になるが、ホーエンシュタウフェン家は負けてしまい、フリードリッヒ二世の後継者は皆殺しにされた。ただ一人、フリードリッヒ二世の孫娘でアラゴン王ペドロ三世と結婚していたコスタンツァを除いて。
とにかく、法王と皇帝は仲が悪かった。
11世紀にハインリヒ四世はカノッサの屈辱。
<シャルルの時代>
シャルルのやり方は冷酷であり、フランスから連れてきた役人や兵士たちも横暴だったのでアンジュ一家の統治は不評。
1282年3月29日 復活祭翌月曜日(イースターマンデー)
パレルモの教会前に人々が集まっていた。200人の群れをなしていた仏人の一人が、シチリア人の若い人妻にちょっかいを出した。怒った夫は仏人を剣で刺した。周りのパレルモ人もいきり立ち、200人の仏人を皆殺しにした。
その騒ぎが街中に広がり、仏人を皆殺しにしろ!となった。
またたくまに全島に広がりアンジュー家の軍勢はやられた。シャルルはこの時、コンスタンチノープル襲撃準備をしていて、メッシーナに船を集結させていたが、全部焼かれてしまい反撃に出れなかった。
シチリアの人々は、ホーエンシュタウフェン家に戻ってきてもらいたかった。
フリードリッヒ二世の孫娘がスペインアラブン王と結婚していたので、1442年アラゴン王が南イタリアとシチリアの王になる。
ナポリ王国、または、両シチリア王国と呼ばれる。
16世紀前半から、アラゴン(フェルナンド)とカスティーリャ(イザベル女王)は一つの国になり、スペインと呼ばれるに至る。
それに伴い、シチリアもアラゴンからスペイン時代に移る。
この後、両シチリア王国の支配者は、住民の意思とは関係なく、王家から王家へめまぐるしく変転する。
まず、スペイン継承戦争の結果、1713年サヴォイア王家がシチリアを、ハプスブルク家が南イタリアとサルディーニャを領有。
7年後、サヴォイア王家とハプスブルク家は、シチリアとサルディーニャを交換し、ハプスブルク家がシチリアを領有。しかし、わずか14年後、1734年ポーランド継承戦争の結果、ハプスはシチリアをスペインブルボン家へゆずる。
スペインブルボン家はスペイン王国と両シチリア王国を合併する事なく両シチリア王国に別の王を立てる事が決まる。
王は別でも、スペインからたくさんの貴族、役人、軍人がくる。
シチリアはスペイン化が進みさ、またもや搾取される。
さらに新大陸・新航海の発見以来、シチリアがヨーロッパの主要な通商路から外れ、スペイン・ブルボン家の失政が加わり、シチリアは農業も商工業もともにふるわない後進地域に転落。
1860年5月11日、外国勢力の排除とイタリア統一の闘志に燃えたガリバルディが再統一の核になるサヴォイア王国からひそかに援助を得て、わずか1089人の義勇軍を率いてシチリア西岸のマルサーラに上陸。別名:赤シャツ隊、1000人部隊。
破竹の勢いで追撃を続け、9月7日には国王が逃げ出した後のナポリへ入城。
ヴィットリオエマヌエール二世も南下して追撃し、1861年イタリア統一を実現(明治維新の6年後)。