リヒテンシュタインの面積は160平方キロメートル、こんなに小さな国が独立して存在するのはなぜでしょう?
リヒテンシュタイン公国の起こり
城主のリヒテンシュタイン家ですが、元々はオーストリアの貴族でした。
しかも、今でもリヒテンシュタインの面積の何倍にもなる土地をオーストリアにもっています。
この一族の家名は、12世紀にハインリヒ・フォン・シュヴァルツェンベルクという人がウィーンの南に建てた「リヒテンシュタイン」という砦の名前に由来しています。
リヒトは光とか明るいものという意味。シュタインとは石の塊の山とか城を意味。
つまり、同家の語源は「明るい城塞」ということになります。
リヒテンシュタイン家の人々は、バーベンベルク家の家臣として熱心に働き、広大な土地を得ていきます。
バーベンベルク朝の時代が終わってハプスブルク家の時代(1273年-)になると、実直なリヒテンシュタイン家の人々はこの新しい主君にも誠実に仕えました。
しかし、14世紀の終わり頃に、一族のヨハンという人が何をしでかしたのか、主君からすごい怒りを買ってしまいました。
そしてハプスブルク家のアルプレヒト5世はリヒテンシュタイン家の一族を騙して宴会に呼び、そこで一網打尽の牢屋送りにしました。彼らがもっていた23の城も、牢に入っている間に没収です。
ところが、こうして文無しになったリヒテンシュタイン家の人々はヘコみませんでした。
そこから200年にわたって主君のため仕事に励みつつ財産を作り、位も世襲侯爵に昇進します。
さらに、総理大臣、大蔵大臣、枢機卿、将軍も輩出したそうです。
リヒテンシュタイン家の武器は、仕事の才能だけではありません。
商才にも長けていました。
ハプスブルク家に重用された背景として、実はこの王朝にだいぶ融資をしていた事実もあるのです。
ちなみに、リヒテンシュタイン家の渾名は「富豪侯」だったそうです。
そして、お金の使い方をよく知っていることは、リヒテンシュタイン家のご領地の人々にもしばしば幸運をもたらしました。
ここからいよいよリヒテンシュタイン侯国発祥の準備が始まります。
17世紀の末になると、仕事と商売で力をつけたリヒテンシュタイン家は、その実力にふさわしく「帝国使節会議」に出席できる身分になりたいと考えました。
が、そのためには主君であるハプスブルク家の版図に入ってない場所に国をもっていなくてはなりません。
そこで一族のヨハン・アダムは、今のリヒテンシュタインのシュレンベルクに目をつけました。
ホーエンエムス家の伯爵が、借金で困ってその土地を売りに出していたのです。
で、いろいろ苦労した挙句ヨハン・アダムは1699年1月18日に11万5千グルデンでシュレンベルクを手に入れました。
しかし、これではまだ領地が狭いということで、リヒテンシュタイン家の夢は簡単には実現しませんでした。
そこでヨハン・アダムは次のチャンスを辛抱強く待ちます。
すると1712年2月22日、ホーエンエムス家の伯爵ヤーコプ・ハンニバルが借金漬けになってたまらず、ファドゥーツの地を売りに出しました。
もちろんヨハン・アダムは喜んでこの土地を購入します。
代金は29万グルデンでした。
これでホッとしたのか、ヨハン・アダムは同年6月16日に亡くなってしまいます。
ヨハン・アダムには世継ぎがいなかったので、こうして手に入れた土地は一族のヨーゼフ・ヴェンツェルに引き継がれました。
しかし彼はハプスブルクの宮廷になくてはならない逸材だったので、そんな土地など構ってはいられません。
そこでヨーゼフ・ヴェンツェルはシュレンベルクとファドゥーツを叔父であるアントン・フロリアンの土地と交換しました。
アントン・フロリアンはハプスブルク家の皇帝カール6世の教師を務めていたことがある人物です。
その功績もあってか、皇帝は彼にシュレンベルクとファドゥーツを合体させてひとつの国を作っていいと許可してくれました。
ついに、「リヒテンシュタイン侯国」の誕生です。
侯国の主となったリヒテンシュタイン家は、晴れて「帝国使節議会」にも出席する夢を実現させました。
平和的にハプスブルク家領の外に国をもつという作戦は成功です。
しかも当初の目的が目的ですから、リヒテンシュタイン侯国がそれ以上領土を広げる気にならなかったのも当然です。
おかげでリヒテンシュタイン侯国はいつまでも不自然に小さいままでした。
リヒテンシュタイン公国の危機
侯国となったリヒテンシュタインには、ナポレオン戦争、普墺戦争(ふおうせんそう)、第1次世界大戦、第2次世界大戦と、4つの危機がありました。しかし、時の侯爵はこれを恵まれた運と才能でうまく乗り切っています。
まずナポレオン戦争。
1796年にフランス軍はオーストリア西部のブレゲンツに入り、そこからフェルトキルヒを通って南下してきました。兵力が数十人しかないリヒテンシュタインはロクに戦う余地もなく、あっさり占領されてしまいます。
しかし、戦う余地があって兵士が全滅するよりは、このほうがまだマシかも知れませんね。戦火に曝されたら、農民までとばっちりを受けますから。
その後ナポレオンはウィーンも占領。
参ったオーストリアは1797年10月18日にフランスといったん休戦しました。しかし、フランス軍は休戦のあともイタリア侵攻だのスイス占領を続け、さらに勢力を拡大。そこで1798年12月に第2次対仏大同盟ができ、翌1799年3月20日にオーストリアは再度フランスに宣戦布告をします。もちろん、主君がハプスブルク家に仕えるリヒテンシュタインはまた巻き添えです。フランス軍はリヒテンシュタインのベンデルンに侵入、そこを足場にしてオーストリアのフェルトキルヒ攻略を狙いました。そして大戦闘の末に目的を果たせなかったフランス軍は、頭に来て3週間ほどそのあたりで略爆の限りを尽くした挙句スイスに退散してゆきました。当時人口5,000人にすぎなかったリヒテンシュタインは、こうしたフランス軍の略爆やオーストリア軍の徴発(略爆も徴発も似たようなものですが)によって、100万グルデンもの負債を負わされたといいます。まさに大迷惑でした。
さて、オーストリア側は2度のボロ負けにも懲りず、1805年8月に3度目の対仏大同盟に参加します。一方、ナポレオンは同年11月にウィーンをまたもや占領する傍ら、フランスに近い西南ドイツにライン連邦という第3勢力の国を一方的に作って、そこの保護者に就きます。このライン連邦には、リヒテンシュタインも強制的に組み入れられました。ハプスブルク家の忠実な家臣でありながら、フランスの息のかかったライン連邦軍に40人の兵士を差し出せと命じられた当時のリヒテンシュタイン侯爵ヨハネス1世は、実に困ったことになりました。そこで彼は1つの妥協策に打って出ます。それは、近くのナッサウ公国に毎年5,000グルデンを払って兵役を肩代わりしてもらうということです。これならハプスブルク家に直接刃を向けることにはなりません。
余談ですが、ライン連邦軍に送られたナッサウ公国の兵士たちは1808年-1809年にスペイン戦線で全滅しました。ここぞというときに大金を惜しみなく使ったヨハネス1世の判断は、奇しくもリヒテンシュタインの領民の命を救っていたのです。
このあとも第4次、第5次の対仏大同盟がしつこくでき、あれやこれやと戦争をしているうちにナポレオンは敗北。ひたすら耐え続けたリヒテンシュタインも、やっと踏んだり蹴ったりから解放されました。そしてこの歴史の混乱はリヒテンシュタインにちょっとした幸運ももたらしました。それは、理由はどうあれ例のライン連邦で認められた名目的な主権が、戦後なし崩し的ながら実質的主権に変わっていったことです。つまり、今までほどハプスブルク家に気兼ねせず自分で自分の国のことを決める余地ができてきたのです。
では、お次の災難に入りましょう。1867年にプロイセン帝国とオーストリア帝国がドイツの覇権を巡って対立、普墺戦争(ふおうせんそう)が勃発します。
リヒテンシュタインはオーストリアから80人の兵士を供出するように命じられました。そこでリヒテンシュタイン侯爵ヨハネス2世は戦況を冷静に観察。オーストリア軍がボヘミア戦線で苦戦する一方で、イタリアでは連勝しているところを見て、自国の兵士たちを南進させました。1867年7月2日のことです。ナポレオン戦争のあとで主権の度合いを高めたからとれた行動ともいえますね。また、このときヨハネス2世は表向きじゃ「ドイツ民族同士で血を流したくない」とか「チロル防衛でドイツ民族に貢献」などと言ってますが、これはウソでしょう。翌7月3日、ボヘミアのケーニヒスグレーツの近辺でオーストリアの主力軍は壊滅しています。一方、イタリア戦線に出かけた80人のリヒテンシュタイン兵は、結局敵の姿さえ見ることなく6週間で帰国。またもや全員無事でした。
ちなみに、このときリヒテンシュタインの戦費は、すべてヨハネス2世のポケットマネーから出ていたそうです。考えてみれば大砲や鉄砲の弾はそんなに安いワケじゃありませんから、戦闘をすれば余計な出費が増えます。他人の税金で戦争をする人はそんなコスト意識なんて希薄でしょうしょうけど、自腹となれば話は違います。出費を最小限に抑えるため、なるべく戦闘は避けるのが当然でしょう。その意味で、ケチケチせずに自分のポケットマネーをポンと出したヨハネス2世は、むしろ節約家だといえます。お金の使い方を熟知した人ですね。
普墺戦争は結局オーストリアの負けで終わりました。そしてオーストリア側は軍備の縮小を求められます。そこでリヒテンシュタインのヨハネス2世は、「それじゃあ、我が国は80人の兵士を減らします」と応えました。これまでの総兵力80人から80人を引いたらゼロです。しかし、できるだけ自国の軍備を減らしたくないオーストリアは渡りに船でこの申し出を了解。こうして、山奥のどーでもいいような場所に非武装国家が誕生しました。
そうそう、リヒテンシュタインのお土産には、銃刀を持って不動の姿勢で立つ老兵士の絵葉書があります。この人は1939年4月19日に95歳で亡くなったアンドレアス・キーバーさんといって、リヒテンシュタインの最後の兵士だったそうです。しかも、この人が戦地に向かったのは1867年といいますから、あの敵1人見かけないイタリア戦線に赴いていたことになります。
ついでながら、軍隊を解散した1868年にヨハネス2世はライン川の堤防工事を実施、退役兵士が失業しないようにとの配慮もしました。さらに、戦争の影響だのなんだので困っているだろうと、国民に17万5千グルデンの無利息貸し付けも行っています。おかげでヨハネス2世は「善良侯」と渾名され、今ではこの侯爵の石像が国内に3つも建っているそうです。
さて、リヒテンシュタインが歩み始めた「非武装国家」という選択は、一見とても理想的な国の姿だと思われがちですが、実は強い軍隊をもつ国よりもずっと舵取りが難しいという一面をもっています。
次は第1次世界大戦。
1914年6月28日にサラエヴォでハプスブルク家のフランツ・フェルディナント皇太子が暗殺され、7月28日にはオーストリアがセルビアに戦線布告。当初皇帝フランツ・ヨーゼフはセルビアのお仕置きだけにして済ませるつもりだったのですが、本人の意図に反して戦火はめちゃくちゃ拡大してしまいました。
当時、小国のリヒテンシュタインは外交をオーストリアにアウトソーシングしていました。また、元首のヨハネス2世はリヒテンシュタイン侯爵であると同時に、オーストリア貴族としての地位も保持していました。さらに、この国は経済の面でもオーストリアと関税同盟を結んでいました。だから連合国側にはイヤでも目の仇にされます。しかし軍隊は1868年に廃止していますから、戦争に加担することはあり得ません。そこでリヒテンシュタインは9月25日、ウィーンにあるアメリカ大使館を通じて「中立」を宣言しました。
そのあとリヒテンシュタインは国内にいたフランス人やイギリス人の尼さんたちを保護、オーストリア軍の捕虜になった連合国兵士が脱走で自国を通過するのも許可、さらに国内にいたオーストリア軍の脱走兵や戦争反対者の引渡し拒否といった行動もとりました。
これに対してイギリスやフランスは、自国内にいたリヒテンシュタイン人を収容所にぶち込むという下品な返礼をしました。
こうしてリヒテンシュタインの中立は完全に無視されました。さらに英仏などの連合国側は、経済封鎖の魔の手をリヒテンシュタインにも伸ばしてきました。その結果食料の輸入ができなくなったリヒテンシュタインは、飢餓寸前の危機に陥ってゆきました。非武装中立というのはこういう試練を受けるんですよ。大変でしょ。
ところがここに、救いの主が現われます。それはスイスでした。いくらなんでも罪のない小国リヒテンシュタインをここまでイギリスやフランスが苛め抜くのはひどい、と可哀想になったのです。でも、スイスだって別に余裕があったわけではありません。厳しい環境の中で、中立を維持するために備蓄していたなけなしの食糧の一部を、わざわざ売ってくれたのです。立派な人たちですね。
スイスから送られてきた小麦粉の代金は全部で55万フランでした。連合国の経済封鎖でビンボーになっていたリヒテンシュタインの人々は、どうやってこれを買ったと思いますか?実は元首のヨハネス2世が、無利息でポンとお金を国民に融資してくれてたんですよ。すごいインフレの時代ですから、無利息の融資というのは事実上くれてやったのも同然です。なんという懐の深さでしょう。
ナポレオン戦争のあともそうでしたが、この侯爵家は、本当にいざというとき思い切りよくお金を使いますね。それと、戦争中の経済疲弊やその後のハイパーインフレ、さらにはチェコの新政府よるボヘミアの広大なご領地の没収といった打撃をモノともせず大富豪であり続けたリヒテンシュタイン家の才能を見ると、モルガンやロックフェラーも凡人に見えてきます。
こうして、スイスの騎士道精神と元首ヨハネス2世の財力により、リヒテンシュタインの人々は命拾いをしました。そして1918年11月、第1次世界大戦はドイツ・オーストリアの同盟国側が敗れて幕を閉じました。しかし、第1次世界大戦の本当の勝者は、大国相手に「非武装中立」を貫き通したリヒテンシュタインと、それを助けたスイスの良心です。
この大戦のあと、リヒテンシュタインはオーストリアから離れてスイスに接近することを考えました。しかし、長らく世話になってきたオーストリアとの関税同盟や外交委託の破棄を一方的に行うのは気が引けます。何かいい考えはないものでしょうか?
するとそこにタナボタが起こります。それは、オーストリアの帝政崩壊です。リヒテンシュタイン家が忠誠を尽くしていたのは、オーストリア=ハンガリー帝国という国ではなく、ハプスブルク家という1つの王家でした。そこでリヒテンシュタインは新しいオーストリアの共和国政府に言いました。
「ハプスブルク家のみなさんには大変お世話になりました。皇室の方々と結んでいた関税同盟や外交委託が満期となるのは寂しいことですが、今度の共和制がうまくいきますように祈ってますよ。それじゃ、バイバイ!」
と丁寧に。「破棄」ではなく、「満期」と言ったところが紳士的ですね。それと、帝政の崩壊でオーストリアの貴族制度も廃止になりましたが、リヒテンシュタイン家の人々は自分たちの小さな国があるおかげで、今での貴族の地位を保持したままです。
その後リヒテンシュタインはスイスと関税同盟および外交の委託を締結しました。また国際連盟にも加盟しようとしたのですが、こちらのほうは「軍隊のない国じゃ軍事的な制裁に参加できないだろう!」と叱られて、入れてもらえませんでした。制裁以外にもやることはあると思うんですけど。国際連盟は石頭ですね。
最後に第2次世界大戦のことをお話ししましょう。
このときリヒテンシュタインはスイスと運命共同体を作っていたうえ、耕地面積を以前の2倍にするといった自助努力もしていましたから、第1次世界大戦のときみたいに餓死寸前のリスクはありませんでした。それどころか、人口1万人なのに7千人もの難民を受け入れて、その人たちの救済をするほどの余裕ぶり。難民の中にはかつてリヒテンシュタインを何度も苦しめたフランス人も3千人以上いたといいますが、ギナ后侯によって設立されたリヒテンシュタイン赤十字は過去の恨みなんて気にせず、誰でも助けてあげました。
リヒテンシュタインは軍隊がないうえ、オーストリアとの国境は平地でしたので、もしナチスがここを越えてきたら、5分か10分で占領されるのは明らかでした。ただ、その国境には関税同盟を結んでいるスイスの税官吏がて、もしナチスの兵隊がこの税関を破って中に侵入したら、もちろん怒られます。それどころか、恐るべき武装中立国スイスの強力な民兵を全部敵に回すことにさえなりかねません。そんなわけで、結局ナチスは攻めてきませんでした。
ただ、第2次世界大戦ではリヒテンシュタインにも困ったことがひとつありました。それは、ナチスの思想に同調するリヒテンシュタイン人が少しいたということです。人口1万人のうちたった50人でしたが、なにしろ「紳士の国、エスプリの国」ですから、これを放っておくわけにはいきません。で、どうしたかというと、実は捕まえたあと「二度と戻って来るなよ!」とオーストリアに逃がしてやりました。なんと甘いという人もいるでしょうね。でも、これはこれでひとつの選択です。
当時ナチスの思想にはまったリヒテンシュタイン人たちは主に若者で、どうやら「若気の至り」の結果だったようです。あまり目くじらたてることはなかったのかも知れません。
そういえば、戦後のリヒテンシュタインで国の経済に貢献したある人が元首から勲章をくれると言われたとき、「私は若いときナチスに心頭してこの国に迷惑をかけたことがあるから受け取れません」と答えたそうです。やっぱり若気の至りだったんですね。処刑しなくてよかったよかった。
こうしてリヒテンシュタインは数々の困難をなんだかんだいいながら、結局全部克服してゆきました。しかも、別に策を弄するわけでもなく、ごくまっとうに。
そして今のリヒテンシュタインは使いもしない切手の印刷・販売とか、ペーパーカンパニーのおびき寄せといった商売を繁盛させ、世界有数のリッチな国となっています。元首のリヒテンシュタイ家の人々は、本当に何代経ても商売上手ですね。
おしまいに、意外なお話しをひとつ。
リヒテンシュタイン侯国の元首は代々ウィーンに住んでいて、リヒテンシュタインには定住してませんでした。
12世紀頃に建てられたファドゥーツ城は、1499年に戦争の煽りを受けて一部が崩壊。その後拡張などがされ、城は領主の館として、また監獄として、そしてリヒテンシュタイン軍の兵舎として利用されるようになった。またその一部は、1896年まで酒場として利用されていた。
1905年~1912年、公爵ヨハン2世のもと大改修が行われ、1938年以降はココがリヒテンシュタイン家の居城として使われている。約130の部屋があるそうだ。